もしもヘレンケラーがカーブスを運営したら(自由気ままな考察 2019)
歴史上にはさまざまな人物がいますが、三重の苦労を背負いながら生きがいのある人生を送ったとして知られている人物がヘレンケラーです。ヘレンケラーは1880年に裕福な家庭に生まれました。三重の苦労を背負うまでは非常に活発でありいつもニコニコ明るい子だったといわれています。生後19カ月のころに原因不明の高熱と下痢に見舞われたヘレンケラーは、一命はとりとめたものの、視覚と聴覚を失ってしまったのです。幼少期に発した言葉の中で覚えていたものがウォーターのたった一言だけであり、ヘレンケラーとウォーターの言葉を結びつける人は多いことでしょう。
当時このような苦労を背負っているのであれば、教育を受けても仕方がないと考えられている時代でしたが、ヘレンケラーが7歳のころに両親の努力によって良い出会いがもたらされました。それが視覚や聴覚などに障害を持つ人の教育に尽力していたベル博士と呼ばれる人物です。ヘレンの気持ちをくんでくれて、彼女のジェスチャーも理解してくれることから、ヘレンもベル博士が大好きになったのです。この博士によって家庭教師を紹介され、あの有名なサリバン女史が家庭教師になったのです。思い通りにならなければかんしゃくを起こし、手足をばたつかせてわめいて人をたたいたりかみついたり、けとばしたりなどとする行動が日常茶飯事でした。その結果として家のはなれによってサリバン女史とヘレンケラーだけの生活が始まったのです。サリバン女史によりさまざまなことを覚えたヘレンケラーは、最終的には名門ハーバード大学の女子のための大学にも見事合格し、点字での試験も一人で受験しました。執筆の才能を持ち、お金を稼ぐために勉強しながら執筆活動を行いきちんと卒業したのです。目も見えることなく耳もきこえないヘレンは卒業後に障害者のために生きる決意をし、雑誌社の依頼では様々な原稿書き、さらには50歳のときには障害者の環境向上させるために、来日も果たしました。
もしもヘレンケラーがカーブスを運営したら、視力も張力もないながらも、自分自身の努力により、成功に導くことでしょう。